この記事の目次
純烈白川裕二郎の力士時代の画像10選を紹介!
銭湯アイドル純烈のリードボーカルとして活躍されている白川裕二郎さん。
白川さんはイケメンですが、実は力士だったのをご存知でしょうか?
信じられませんよね?
そんな白川さんの力士時代の貴重な画像5選を紹介!又、相撲を辞めた本当の理由とエピソード3選を紹介します!
力士時代と現在の画像を比較!
白川裕二郎さんは、今では純烈メンバーの中で筋肉質でイケメン!ですが、力士時代と現在について比較してみました。
白川裕二郎さんの力士時代の画像を見ると、力士としてはキャシャな体型ですね?
イケメンとうより表情にあどけなさがあり、若いですね!
現在も筋トレをされているだけあって、力強い体型をしています。
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力士時代の四股名の由来は?
かつては大相撲の朝日山部屋に所属していた元力士です。
そのときの四股名は「綱ノ富士」でしたが、その由来はどのようなものだったのでしょうか?
白川さんは、高校卒業後に朝日山部屋に入門し、1995年9月場所に本名の「白川」という四股名で初土俵を踏みました。
当時の体格は身長182cm、体重82kgと小柄な力士でしたが、自身は米1升のノルマやプロテインを飲むのが苦痛だったと語っています。
白川さんは、高校卒業後に朝日山部屋に入門し、1995年9月場所に本名の「白川」という四股名で初土俵を踏みました。
1996年7月場所より、四股名を「綱ノ富士」に改名しました。
この四股名は、師匠の若二瀬唯之さんが考えてくれたもので、白川さんの出身地である神奈川県の富士山と、力士としての強さを表す「綱」の字を組み合わせたものだそうです。
白川さんは、この四股名には「富士山のように大きくなってほしい」という師匠の期待が込められていると感じていたといいます。
1996年7月場所より、四股名を「綱ノ富士」に改名しました。
この四股名は、師匠の若二瀬唯之さんが考えてくれたもので、白川さんの出身地である神奈川県の富士山と、力士としての強さを表す「綱」の字を組み合わせたものだそうです。
白川さんは、力士時代の四股名「綱ノ富士」には、今でも愛着があると話しています。
また、大相撲関係からも声がかかることがあり、2021年にはNHKの『大相撲どすこい研』にゲスト出演したり、『大相撲中継』に対談が掲載されたりしました。
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力士時代の体重は?
白川裕二郎さんは、高校卒業後に大相撲の朝日山部屋に入門しました。
本名の白川という四股名で1995年9月場所に初土俵を踏みました。
しかし、身長182cm、体重82kgと小柄な力士で、怪我のために1996年9月場所限りで引退してしまいました。
力士時代の最高位は序二段99枚目で、四股名は綱ノ富士と改名していました。
白川裕二郎さんは現在、身長185cm、体重74kgと公表されています。
力士時代に105kgまで増えた体重は、引退後の糖質制限によって一般人レベルまで減らしたそうです。
また、持ち前の運動能力を生かして『スポーツマンNo.1決定戦』にも出演し、過去5回、総合6位以内に入るなどの成績を残しています。
筋トレが趣味の白川裕二郎さんは、筋肉もバッチリですね。
白川裕二郎さんは元力士の経歴を持っているとは思えないほど、スタイル抜群のイケメン俳優です。俳優や歌手としての活躍はもちろん、大相撲関係からも声がかかるようになっているそうです。
これからも白川裕二郎さんの多彩な魅力に注目していきたいですね。
白川裕二郎が相撲を辞めた本当の理由は?
白川さんは、朝日山部屋入門後僅か1年で引退されています。
理由としては2つ考えられます。
1つ目の理由としては腰の悪化です。
元々腰に持病を抱えていた白川さんは、無理を承知でさらしを撒いて稽古を続けて最後の場所に出たんですが、腰の痛みが強くなり白井さん自身「もういいや」とプッツンと心が切れてしまったのが理由です。
2つ目の理由として相撲界の壁です。
白井さんは初めの四股名が「白川」でした。
序ノ口から順調に勝ち進んできたんですが、上の序二段の先輩達との稽古で全く歯が立たずレベルの差を痛感されていました。
いくら稽古しても勝てない!初めの当たり負けをしてしまう!白川さんなりにどうすれば勝てるのか?考える程、勝てなく悩まれていました。
相撲の世界では上に上がるほど心技体のレベルが違います。
肌で感じた相撲のレベルを痛感した白井さんは相撲界で勝ち続けていく事は困難と判断されたのではないでしょうか。
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力士時代のエピソード3選を紹介!
白川裕二郎ファンであれば、力士時代のエピソードなど一番気になることでしょう?
そこで、今回特別に白川裕二郎さんの力士時代のエピソード3選を見つけましたので紹介します!
これを知れば白川裕二郎さんの力士になった理由や、現座に至るまで!白川裕二郎さんの更なる魅力を知ることになるでしょう!
では、早速紹介します。
母親の影響で相撲を始めた
白川裕二郎さんは、高校卒業後に大相撲の朝日山部屋に入門しました。
しかし、白川裕二郎さんが相撲を始めたきっかけは、母親の影響だったそうです。
母親は相撲ファンで、白川裕二郎さんが小さい頃から相撲を見せていたそうです。
白川裕二郎さんは、母親のために相撲を始めたと語っています。
母親は白川裕二郎さんの相撲を応援していましたが、引退後は俳優になることを勧めたそうです。
母親は白川裕二郎さんの人生の大きなサポーターだったのですね。
力士時代の四股名は綱ノ富士だった
白川裕二郎さんは、本名の白川という四股名で1995年9月場所に初土俵を踏みました。
しかし、身長182cm、体重82kgと小柄な力士で、怪我のために1996年9月場所限りで引退してしまいました。
力士時代の最高位は序二段99枚目で、四股名は綱ノ富士と改名していました。
綱ノ富士という四股名は、白川裕二郎さんの出身地である神奈川県の富士山をイメージしたものだそうです。
白川裕二郎さんは、綱ノ富士という四股名に愛着があったと言っています。
力士時代の仲間との交流が続いている
白川裕二郎さんは、力士時代の仲間との交流が続いているそうです。
特に、同じ朝日山部屋の元力士で、現在は相撲解説者やタレントとして活躍している舞の海秀平さんとは仲が良いそうです。
白川裕二郎さんは、舞の海さんに相撲のことや芸能界のことなど、色々な相談をしていると言っています。
また、白川裕二郎さんは、大相撲関係からも声がかかるようになっているそうで、2019年には大相撲の番付表をデザインしたこともありました。
白川裕二郎さんは、力士時代の経験を大切にしているのですね。
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さいごに
如何でしたか?
今回は純烈メンバーの1人で、白川裕二郎さんの力士時代ついて紹介してきました。
白川さんの力士時代は小柄で、体型では不利の部類になるかも知れませんが、腰の痛みや相撲界の熱き壁に悩まされていたそうですね。
しかし、相撲界という厳しい世界で戦ってきた経験があるからこそ現在の「純烈」と言う新たなフィールドで活躍できているのではないでしょうか?
今後の白川裕二郎さんの活躍を注目していきましょう!
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